たそがれる夜

ひとりごと

見えない音を聴く。

ワイヤレスイヤホンのデビューをしてしまった。

これがなんともすごい。

大した額のものではないんだけれど、

ノイズキャンセンリング率の高さ。

と同時に思った。

「ノイズキャンセンリング」

不思議でならない。

そもそも、人間の五官って、身を守るためにある(はず。多分だけど)。

外敵を目で知覚し、

耳で察知し、

触ることで安全か確認し、

苦味等を察知して、体内に入れる前に吐き出す。

そして、臭いで良し悪しを判断する。

多分、太古の昔はそういうふうに使われてた。

でも、いろいろ発達して、

いまみたく、動物の上に立った構造(厳密にはそうじゃないけど、もう、食物連鎖の中で争わなくていい位置に来ちゃった)の人間は、

自然災害と人間、時々、人間以外の動物

以外には身の危険を考えなくてよくなった。

大体の人が恐れるのは病気くらい。

で、その五官を鑑賞用に変えていく。

絵画を「観」たり、

美味しいものを「食」べたり、

お香や香水とか、花の「香」を楽しんだり、

手は、どちらかというと、造る方か。

で、耳で聴く。

曲が最たるもの。

そして、曲を聴くために、本来聞いて外敵から身を守るべきだった外界の音をノイズとまで堕落させた。

そして、キャンセリングしてしまうのである。

そのとき、ふと、当たり前だけど、

キャンセルされた音は、聴くことしかできなかったと気づいた。

目で見ようとも、香りをかごうとも、

触ることもできない。

失って初めて、というが、

人間は当たり前を当たり前にしがちなのである。

失うことによって、存在を知らしめられるとは

本当に皮肉だと思う。

そして、ノイズもそうなのだ。

(というか、ノイズというレベルまで落とされているんだから、落ちぶれたものである)。

わたしが曲を聴いて歩いていたとき、

隣を駆けていった、少年の足音を聴くことはできなかった。

見えていたけど聞けなかった。

そうなのだ、音は聴くことしかできないんだと。

何かを得ることは失うことと表裏でもあるのかもしれない。

曲を聴くことを否定してるわけではない。

曲を聴くことは良いことで、人を豊かにする。

そして、それを鑑賞するのだから、ノイズは排除するべきなのである。

それは、鑑賞のために必須なのである。

静寂から、生まれた音が一番綺麗なのだから。

そうだとしたら、静寂から生まれた外界の音も綺麗なのではないだろうか。

今日の夜は、見えない音を聴いて過ごそうかと思った。