たそがれる夜

ひとりごと

袖振り合うも他生の縁

 

通勤や通学をしていると、だいたい乗る電車というものが決まってきて、心の中での勝手な一方的な「いつメン」ができることは多くあるかもしれない。少なくともわたしは、そういうことが多い。別にストーカーなのではなく、なんとなく、その人を覚えてしまうのだ。時には、その人がいないときがあり、あ、今日は、ひと席空くんだなぁとか、その程度である。

 

ただ、一度、道を歩くと、もう知らないひとだらけである。生まれてから一度として、同じ人が同じ場所で出会うことがないのではないかと思う。おそらく、わたしは今すれ違った人と、もう2度と合わないだろうし、その人の名前も知らない。そして、記憶にも残らない。これっきり。さらには、一生会うこともない人もいる。

きっと、わたしは北海道の留萌にいるであろう老夫婦に会うこともなく一生を終えるであろうし、チャドのンジャメナにいるであろうチャラ男にも会うことなくこの先過ごすのであろう。そして、彼らもわたしに会うことなく一生を終える。

多分、それで足りる。し、不都合なこともないんだと思う。

でも、わたしを含め、そういう個人がいるからこそ、世界は回っているのである。

 

他方で、家族を除いて、毎日嫌でも顔を合わせないといけない人もいるし、腐れ縁とかいって、ほんともうなんだよマジでみたいに付き合う羽目になる人もいる。中には、将来の伴侶として、他人だったのに死ぬまで同居をしたりとか。

こうすると、なかなか面白いもので、人との出会いってひょんなことからはじまるのに、場合によっては一生付き合ったり、それっきりだったりするのである。

 

 

そんなとき、ふと、こんなことわざを思い出した。

袖振り合うも他生の縁。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。

これは、仏教的な教えに基づいてると言われている。つまり、人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないということ。
「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のことらしい。

よく、多少でなく、他生といわれたな。

 

仏教「的」というか、六道輪廻とか前世とか明らかに仏教じゃないかというのはさておき、

確かにそうなのかもしれないと思うのである。

 

本当に不思議でならないときがあり、

たとえば、テキトーに選択したことで出会ったり、たまたまで出会ったことがわりと何年か経つと…といったものはよくある。

前世を信じるにしても、仏教を信じる信じないにしても、人との「縁」というものはあるんじゃないかなと思う。

どうしても縁が欲しくても、一生会えない人だっているんだろうし。

 

と考えていたら、振り合うもといっても、本当に関わることができる人って一握りなのではないかと思った。自分が社会的に有名になったとしても、ケープタウンにすむご婦人と会うことすらできないかもしれないからである。

そう考えると、自分が付き合える人は、多そうに見えて、世界の、そして同じ時を生きる人の中のこれっぽっちの一握りなのではないか。

 

世話になっている人はもちろん、腐れ縁の人とも、「ご縁」があって出会ったのであるから、自分に影響を与えてくれる数少ない人として大切に、無駄にせず過ごそうと思った。

 

そんな師走の夜。

 

見えない音を聴く。

ワイヤレスイヤホンのデビューをしてしまった。

これがなんともすごい。

大した額のものではないんだけれど、

ノイズキャンセンリング率の高さ。

と同時に思った。

「ノイズキャンセンリング」

不思議でならない。

そもそも、人間の五官って、身を守るためにある(はず。多分だけど)。

外敵を目で知覚し、

耳で察知し、

触ることで安全か確認し、

苦味等を察知して、体内に入れる前に吐き出す。

そして、臭いで良し悪しを判断する。

多分、太古の昔はそういうふうに使われてた。

でも、いろいろ発達して、

いまみたく、動物の上に立った構造(厳密にはそうじゃないけど、もう、食物連鎖の中で争わなくていい位置に来ちゃった)の人間は、

自然災害と人間、時々、人間以外の動物

以外には身の危険を考えなくてよくなった。

大体の人が恐れるのは病気くらい。

で、その五官を鑑賞用に変えていく。

絵画を「観」たり、

美味しいものを「食」べたり、

お香や香水とか、花の「香」を楽しんだり、

手は、どちらかというと、造る方か。

で、耳で聴く。

曲が最たるもの。

そして、曲を聴くために、本来聞いて外敵から身を守るべきだった外界の音をノイズとまで堕落させた。

そして、キャンセリングしてしまうのである。

そのとき、ふと、当たり前だけど、

キャンセルされた音は、聴くことしかできなかったと気づいた。

目で見ようとも、香りをかごうとも、

触ることもできない。

失って初めて、というが、

人間は当たり前を当たり前にしがちなのである。

失うことによって、存在を知らしめられるとは

本当に皮肉だと思う。

そして、ノイズもそうなのだ。

(というか、ノイズというレベルまで落とされているんだから、落ちぶれたものである)。

わたしが曲を聴いて歩いていたとき、

隣を駆けていった、少年の足音を聴くことはできなかった。

見えていたけど聞けなかった。

そうなのだ、音は聴くことしかできないんだと。

何かを得ることは失うことと表裏でもあるのかもしれない。

曲を聴くことを否定してるわけではない。

曲を聴くことは良いことで、人を豊かにする。

そして、それを鑑賞するのだから、ノイズは排除するべきなのである。

それは、鑑賞のために必須なのである。

静寂から、生まれた音が一番綺麗なのだから。

そうだとしたら、静寂から生まれた外界の音も綺麗なのではないだろうか。

今日の夜は、見えない音を聴いて過ごそうかと思った。

児童文学って奥が深い。雨を通して

ここ数日、雨が降っていた。

傘。

傘に投資をする人はどれほどいるのだろう、

わたしは傘を間違えられて失くしてから、

愛着の湧く傘は買わないことにしている。

悲しい思い出。

まぁ傘ってなくなるとまず戻ってこないよね。

ぐぐったりすると

傘に「警視庁」のラベル貼ったり、

般若のキーホルダーつけたり

だと、色々盗まれない工夫もしているみたい。

他方、ビニール傘の路上投棄対策とかで、傘シェアサービスとか始まっている。

傘に対する愛着。

人は傘に対しての愛着を持つのだろうか。

おじさんのかさと言う作品がある。

小学校の国語の授業で扱った作品(はず)。小学校の1年生だったような記憶がある。

そして確か出版社は光村図書。

とりあえずネットで探してみたところおじさんのかさと言う作品は存在したので、

自分が記憶している程度に作品を振り返りたいと思う。

おじさんは確か黒い傘を持っていて、その傘が好きすぎて雨の日も傘をささない。

傘を持って歩いているけど、雨が降ってきたら、その傘を閉じたまま他の人の傘に入ったりして雨をしのぐ。

そしてなんかよくわからないけれども必要に駆られてその傘をささざるを得ない状況に遭い、傘をさしたところ雨音がすごい楽しくなって、

その日の夜は、その濡れた傘を見ながらお茶とタバコを吸って何か笑顔で笑った的な、その作品だった気がする。

この作品で何を学んだのか全く覚えていない。

そしてある種(言葉悪いが)いわゆるいかれたおじさんに対する作品?を扱って、児童に何を学ばせていたのかと思うような作品でもある。とりあえず詳細を調べずに今の段階で、あの作品を通じて何を学ぶべきかだったのかを推測したいと思う。

この作品の大枠からするに、おそらく新たな発見、新たな世界観というものを学ぶ作品なのではないか。このおじさんを例にしてみても、おじさんは傘が好きが故に傘をさすことがなかった。様は大切な物を固執したような守り方をしていたと思う。

傘の使い方とは、雨が降った時に傘をさす、要は雨風からしのぐと言う使い方をするわけであり、

雨の日に傘をささないで傘を閉じたままと言うものは傘の守り方からしてみるとちょっと違う。

というか、傘は自分を守るものに使うのであり、

傘を守ると言うものはなかなか観念できないのではないか。

傘は非常に脆いものであり、風が吹いてしまったら折れてしまったり、ときには傘に穴を開いてしまうということもある。

そうすると傘の使い方傘を守るというのは、究極的には使わないと言うことになるけれども、

そうすると傘が本来持っている効能を発揮できないことになる。

そうだとすると、ものを大切にするということは、物の本来の使用方法に沿って使うことであり、

その使用方法に従って丁寧に扱い、物の寿命が来たらありがとうと言う気持ちでさよならをする。

おじさんは傘を守ることは傘を使わなないことだと思っていた。

傘をさしたことで、本来的なものに気づき、新たな発見をし、大好きな傘をその傘の使用方法に沿って使ってあげることで、その傘の使命を全う出来るようになれたのではないか。

なんかそれっぽい結果出てきたけど、まぁ何を学ぶかはわからないけれども、このようなことを学ぶために扱われた作品なのではなかろうか。

追記で、調べた後の見解を綴ろうと思う。

続きを読む